『セッション』評(ネタバレ)

ファッキンテンポ!

 もうずっとフレッチャーが胸糞悪い。

私の忌み嫌う、いかにも日本的な「部活」のシゴキの権化としか言いようがない

キチガイ禿教師。

途中途中で、「ようやくアンドリューくんと和解か?」

というシーンも尽くキチガイフレッチャーによって崩壊。

そんなこんなでフラストレーションが溜まりまくった状態で、

ラストを迎える。

 

宇多丸さんは「悪魔との契約」と評した。

悪魔(鬼シゴキコーチ)と契約したもののみが至る境地という世界があると。

前述の通り、私は、このいかにも日本的な「シゴキ」の世界が嫌いなのだけど、

現実的には、こういう手法によって強くなる人(選手)は居ることは否定できない。

でのやっぱり嫌でしょ? こういうスポ根的なの。

って人はこの映画見たら「嫌い!」と言ってしまうかもしれないけど、

そこはちょっと待って欲しい。

 

監督である、デミアン・チャゼルはフレッチャーほどではなかったようだけど、

同じようなシゴキを受けてジャズミュージシャンになることは断念したらしい。

そういう意味では、絶対、「こういうシゴキを肯定する映画ではない」。

 

最後の「ニヤッ」で宇多丸の言う「契約」が成立して、

何となくフレッチャーとアンドリューの和解…みたいな終わり方になっているけど、

やはりそれは違うんではないか。

「悪魔との契約」で映画自体は終わっているのは事実だけれども、

私は、もっと先を考えた。

 

アンドリューがいつかフレッチャーを潰すと。

フレッチャーもどこか心の中で「止めてくれ(潰してくれ)」

と願っている(いた)のではないかと。

 

フレッチャーは、自分が音楽家として成長できなかった悔みから、

「有望な若手を潰す」ことに執念を燃やしている。

アンドリューもその犠牲者(になりかけた)一人。

見ようによってはフレッチャーは、

「有望な若手を親身になって育てたい」気持ちが強すぎて

厳しい指導に至っている…ような見方もあるかもしれないが、

完全に「潰すこと」が目的になっているキチガイ(と私は思う)。

 

それを踏まえた上でのラスト。

実際あの展開でアンドリューは「悪魔との契約」を超えて、

「悪魔を食った」状態まで行っていると思う。

 

あの後、アンドリューの成功によって、

フレッチャーは潰れる。

自分より才能溢れる若手によって潰される。

その後、アンドリューがフレッチャーを超える悪魔になるか、

音楽の楽しみを覚えて、天使として君臨するのかはわからないけど。